top of page

定義で「守ってあげる」差別の根

  • 内田
  • 2018年4月10日
  • 読了時間: 3分

八王子の美山町にある、平川病院(http://www.hirakawa.or.jp)のアトリエにお邪魔させてもらった。 そこでは、皆好きな時に好きなように、またアトリエでなく病室であったりと、場所は様々に、自己表現・自己探索し、時間になったらアトリエで合評会を開き、その途中の作品、または完成した絵を見せ合い、話したり、話さなかったりしていた。 皆、自分と向き合っている時間が長いせいか、自分についてすごく詳しい。 そして「ものを作る」という事に対しても、とても純真さを感じた。 それらは、人と比べず、ただ「自分がどうすべきなのか」を真剣に考え、考え抜いて一筆一筆確かめながら表現された作品たちで、私はそれを見て、アール・ブリュットの創設者、デビュッフェ(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジャン・デュビュッフェ)の気持ちが、少し分かった気がした。

私たちは無駄な事で悩んだりする、それが本当に無駄になったり、あるいは全然無駄にならなかったりする。自分が考えなければ解決しない問題に、私達は目を背け、怯え、考える事をやめたり、ずる賢く自分に都合のいい理由をつけては逃げている。 でも、ここにいる人たちは、それを一切していないと思った。切実に、自分にとってとてつもなく不毛であって、それでいて生命を脅かすような難問と、日々きちんと向き合っている。それがどんなにつらくとも。

「それが、その姿が、素晴らしいと思ったから、あなたはその人たちの作品が好きだったんでしょう?」と、私はデビュッフェに言いたい。

また、アウトサイダーアートや、日本でのアール・ブリュットの捉え方・定義、についても考えさせられる日だった。 私は今画家として生きている。とは言え高卒で、美大を出ていない、つまり独学で絵を描いている。 そして、去年の9月から働いていない。ほぼ毎日アトリエと家を行き来し、月に一度心療内科に通っている。 そんな私と、ここで絵を描いている(巷ではアール・ブリュットと紹介されるのであろう)人たちと、私の違いって、一体何?(違いなんてないんじゃないか、、、) アウトサイダーアートやアール・ブリュットでよく使われる表現、《絵の持つ「力強さ」》や《溢れる「生命力」》があれば、アール・ブリュットなの? 精神病や障がいを持っている、または正規の美術教育を受けていなければ、アール・ブリュット? もし、そうだとしても、その枠組みでくくって、「守ってあげる」ほど、そこにあった作品たちは、美術界で、決して弱くない存在でいれる作品たちだと思う。  そんな作品を作っている方たちだった。

私は以前に「小人プロレス」についての記事を読んだ事がある。(https://www.google.co.jp/amp/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/4121363/ 人気だった小人プロレスが、周りの「かわいそうだから」などといった理由から、徐々に廃業を迫られ、結局障がいをもった人の居場所・仕事まで奪ってしまった。といった話し。

日本の美術界の、いわゆる「障がい者アート」や「アール・ブリュット」の取り組みは一見、当事者が安定した制作ができるよう・発表ができるよう環境など、様々な事を整えて、当事者を「守っている」ように見えていた。 でも、作品に対してはどうだろう。そうする事で、実は狭い場所、意味に彼らの表現物を抑え込んでしまっているのではないか。私たちが。

そんな気持ちになった。

「全部はみえない展」実行委員:内田百合香


 
 
 
特集記事
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
  • Facebook Social Icon
  • Twitter Social Icon
  • YouTube Social  Icon
  • Instagram Social Icon

© 2017 あたらしい展覧会実行委員会 All right reserved. 

bottom of page